終章

 亭主を亡くして三十七年になる農婦、ダ・ンギ=タエは、少女時代の徒競走で三等賞を取って以来最大の幸運に見舞われ、この上なく忙しく立ち働く毎日を送ることとなった。
 半径七キロ以内に誰も住まぬというこの辺鄙な土地の農道を、来る日も、来る日も、数え切れぬほどの旅行者が通るようになり、裏のやせ細った畑から採れる貧相な玉蜀黍を焼いて醤油を塗っただけの代物でさえ、飛ぶように売れたのである。

 四十二年前の婚姻手続きで村役場を訪れた際に、初めてテレビとその不信心な娯楽番組を目撃したときから忌み嫌い、異教徒に対するような憎しみを抱くこの太った老婆は、当然のように、世界で何が起きているのか知る由がなかった。また、知りたいとも思わなかった。
 借金を残したまま、泥酔して農水道で溺れ死んだ亭主と、地主の娘を孕ませて雲隠れした一人息子とを、この二十三年間欠かすことなく朝に夕に呪ってきたので、ようやくその願いが、天上の神らしきものに聞き届けられたとばかり思いこみ、まさに有頂天であったのだ。
 もちろん日頃付き合う人物もおらず、米の一粒を囓る野生の栗鼠さえ敵視するような老婆であったので、何が起きているのか教えようとする者は誰一人いなかった。

 最初はものを売りつけようという知恵はなかった。
 しかしある日、敵討ちのような形相で自分の畑を耕すンギ=タエに道を訊ねる者が現れた。三ヶ月前、隣村に住むやぶにらみの井戸掘り職人と話して以来の、他人との会話であったので、少しばかりこの老婆も気前が良くなっていたのだろう。夕べの喰い残しの煮物から、芋と人参の切れ端をすくって恵んでやったのであった。
 ンギ=タエは、このときのことを何度も思い返しては、臓腑が煮えくりかえる思いに苛まれた。見返りなしに食事を与えてしまったことを、後悔し続けていた。

 明くる日、訪れる旅行者は二名となり、次の日には十名、やがて、腹を空かした病犬でさえ避けて通るといわれるンギ=タエの掘っ立て小屋の前の農道を、来る日も、来る日も、人の行列が途絶えることなく、旅するようになったのである。
 腹に入るものであるなら、それが何であっても売れ、何人かは、この猜疑心に凝り固まった老婆に感謝の言葉さえ残していった。ンギ=タエは慎重に値をつり上げ、玉蜀黍に塗る醤油に水を混ぜて薄め、それでもやはり、気前のいい旅行者たちは途絶えることがなかった。

 魯鈍で頑固な老婆が、己の六十一年間に及ぶ生涯の正しさを確信したとしても、何ら不思議ではない。
 ンギ=タエは、土俗信仰と誤った知識から独自に作り上げた儀式に捧げるサークルダンスを、朝夕によりいっそう激しく踊ることに熱中し、そして忘れることなく、死んだ亭主と家を出た息子、それからタダ飯を喰っていったあの旅行者への呪詛の言葉を吐き散らして、一日の眠りにつくのであった。

 掘っ立て小屋に辛うじて店と分かる程度の改装を加え、頭の弱い村の娘を安い賃金で呼び子として雇い、途絶えることのない旅行者たちに、六十一年の人生で得た教訓と成功談を語り聞かせながら、しなびた玉蜀黍と薄い芋のスープを売りつけて、ンギ=タエは、これまでの生涯で手にしたことのない小銭を貯め込むことが出来た。
 しかしそれでも、この太って浅黒く、大型犬のように鈍い目をした老婆は、生活習慣を変えることを是としなかった。貯め込んだ小銭は必要以上に使わず、祖母の代から使っていたという壺に入れ、それが一杯になると、ひとつずつ、床を外した地下室をさらに掘り返して埋めていったのである。

 だが、ンギ=タエと言えどもやはり人の子、ついおだてられ、口車に乗せられ、余計な買い物をしてしまうこともある。
 老婆は太った巨体に似合わぬ小さなベッドの粗末なシーツに腰を下ろし、けばけばしい色で塗られたボール紙の箱を膝に置き、ひとつ溜息をついた。これを売りつけた物売りの口の上手さときたら、さすがのンギ=タエも、最後には首を縦に振るしかなかったのである。

 都会で流行っており、貴族の奥方から映画スター、女実業家、それから教会のシスターたちまで、今やこれを使わぬ女などどこにもいないとの売り口上。そして、亭主でさえただの一度も口にしなかったンギ=タエの女としての魅力など、旅の物売りは老婆が口を挟む隙を一切与えずに並べ立て、最後には定価の二割引を持ちかけたのである。
 もちろん、これまでに四十六回ほど物売りの口上を思い出してはひとり罵ったのだが、しかしこの買い物は、正直なところそれほど不満ではなかった。
 ンギ=タエは箱の蓋を開き、百十七年ぶりに笑った意地の悪い魔女のような笑みを浮かべた。この老婆は笑うことなど滅多になかったので、見た者がぞっとするような形相となっていた。しかし疑うことなく、それはンギ=タエの喜びの表現だったのである。

 安っぽい化粧箱の中には、極太の黒々としたバイブレーターが入っていた。
 サイズは赤子の頭を一回り小さくしたほどもあるのだが、これが今や、既婚婦人たちの間では必需品となって持て囃されていたのである。
 ンギ=タエは太った身体を横たえ、ベッドをギシギシと鳴らしながら、寝間着を捲り上げて下半身を剥き出しにした。丸太のような両脚を大きく開き、突き出た腹でよく見えないヴァギナを探り当て、ミサイルの形をしたバイブを両手でがっしりと掴み、ふんぬ、と一声上げて付き入れていった。
 亭主と死に別れて以来三十七年間、一度も男には縁がなかった。亭主との時も、いつも相手は飲んだくれており、四つん這いにされて尻だけ突き出した格好を取らされ、家畜を扱うように怒鳴られながら、短いセックスをしただけだった。

 亭主との屈辱的なセックスを思い出したンギ=タエはカッと頭に血が上り、鬼の形相になってギリギリと歯を食いしばりながら、太い両腕に渾身の力を込めてバイブを奥へとぶち込んだ。
 ふごっ…と、豚が屠殺されるときのような声をあげ、次に野太い叫びを何度も繰り返して、老婆は身を捩った。巨体にベッドは壊れそうな悲鳴を上げ、グラグラと粗末な掘っ立て小屋が揺れた。コードでつながれたスイッチを捻ると、不気味な重低音を響かせながら、不発弾は老婆の膣内で不規則にのた打ち、ンギ=タエの肥えた身体に負けぬ勢いで暴れまくった。
 浅黒く肥え太った肉塊は、ベッドの上で痙攣のようなおかしなダンスを繰り返し、地の底から響くような呻き声を何度も上げ、吠えた。間抜けな獣じみた雄叫びは、人里離れた農地の遠くまで届き、聞いた者を残らず不幸に陥れそうなエクスタシーを長々とアピールしたのだが、幸いなことに誰一人それを耳にした者はなかった。

 荒い息をつき、たっぷりとした贅肉を波打たせて、ンギ=タエはベッドに身を横たえていた。
 全身が汗まみれであったが、悪い心地ではなかった。
 軽く目を閉じ、口元も微かにゆるみ、安堵の表情を浮かべていた。生まれ落ちてから六十一年間、絶えることなく怒り続けてきた人間が、初めて安らいだとでもいうような、穏やかな寝顔であった。

 シーツの上には、引き抜かれたバイブレーターが転がっていた。
 黒々と太った不発弾の形をして、びっしょりと老婆の愛液に濡れていた。
 それはまだ暖かく、そしてゆらゆらと、白い湯気を立ち上らせるのであった。


エ=リコ少尉の帰還〈完〉